軽便鉄道博物館で貰った地域みっちゃく生活情報誌『ぽろん』8月号。
220系モニ226形電車が表紙を飾り北勢線が紹介されている。
このフリーペーパーが全国どこでも手に入るものじゃないし、
永久に残るようなものでもなさそうなのでデータ化して転載します。
というのは建前で”VOICEROID+ 結月ゆかり“を入手したので
何かに使いたくてしょうがないので・・・
ボカロの初音ミクでは挫折したが
テキスト書いて喋らせるだけなら楽勝だぜ!
軽便鉄道博物館の見学記事はコチラ。
同日に訪れた貨物鉄道博物館の記事はコチラ。
その日の乗り鉄旅の記事はコチラ。
※下のYouTube動画を再生しながら記事をご覧ください。
地域の足として100年
三重県北部の市町を結ぶ北勢線
北勢線は桑名市から北西に向かい、東員町を経て、
いなべ市に至る全長20.4キロのローカル線だ。
全国的にも珍しいナローゲージの路線で、
「マッチ箱電車」とも呼ばれる小さな電車が走っている。
今年開業100年を迎えた北勢線、その歴史を振り返る。
北勢線は地域に欠かせない鉄道です。
私たち住民も存続に向けて積極的に関わっていくことが大切と考えます。
桑名と阿下喜を結ぶ軽便鉄道として開業
明治四十三年の軽便鉄道法交付を受けて、翌年の三月、
桑名の有力者らが桑名町と阿下喜村間の軽便鉄道免許を申請した。
軽便鉄道法とは国が地方鉄道の推進を図るため、
少ない民間資本でも敷設できるよう制定したもので、
軽便鉄道は一般の鉄道に比べて規格が低い小規模の鉄道を指す。
線路の幅が狭くて車両も小型、速度は遅く、輸送力は低かった。
明治四十五年一月に免許を取得し、北勢鉄道が設立する。
大正三年四月、大山田(現西桑名)と楚原間の開業を手始めに、
翌年に桑名町(後の桑名京橋)まで延伸、
さらに大正五年八月には楚原から阿下喜東(後の六石)まで路線が延長された。
そして昭和六年七月、阿下喜東と阿下喜間が延伸開業して全通となった。
江戸時代より商業集落として栄えてきた阿下喜をはじめ、
桑名と経済的にも関係の深かった沿線の町村が鉄道で結ばれたのだ。
全通と同時に全線が電化され、阿下喜東は六石と改称された。
昭和九年に社名を北勢電気鉄道に変更。
昭和十九年には、県内の鉄道やバスの事業者とともに三重交通に統合されるも、
後に鉄道部門が分離されることになる。
昭和三十九年に三重交通全額出資の三重電気鉄道が設立され、
鉄道全線が譲渡された。
続いて翌年四月、親会社である近畿日本鉄道に合併され、
西桑名と阿下喜間は近鉄北勢線となった。
沿線自治体の支援で廃線の危機から存続へ
地域住民の足として活躍してきた北勢線も、
車社会への移行に伴い、年々利用者が減少。
昭和五十年に約五九七万人だったものが、
平成十一年には約二九四万人と半減した。
近鉄へ編入された後の北勢線ではATS(自動列車停止装置)の導入、
自動扉化、ワンマン化といった設備更新や合理化、
近代化が実施されてきたが、利用者の減少は止められなかった。
平成十二年七月、近鉄は北勢線の廃止を表明した。
これを受けて沿線自治体では、乗客の八割近くが定期客であるなど、
地域の公共交通として重要度が高いことを理由に、存続に動き出す。
その後、桑名市、北勢町、員弁町、東員町の沿線一市三町(当時)と
三重県が三岐鉄道に財政支援を行うことにより存続が決定する。
平成十五年四月に事業が三岐鉄道へ譲渡され、運行が開始された。








































